色の無い歌声



知り合いにボーカロイドの曲ばかりを好んで聴いている、やたらと歌が上手い人間が居た。


その知人と話すことが多かった時期、私は絶賛、ボーカロイドの曲たちと戦い、修行を積んでいる最中だった。

機械音のような歌声を受け入れ難いと感じていたのは中学生の頃からであったが、忌避していたその歌声と向き合うべく、耳を慣らしていたのだ。


今の私であれば、人間に依存しない楽器としての歌声だったり、人間の存在を排斥した世界観の表現だったりと、機械の歌声の存在意義を少しは理解出来た気になっているが、

あの頃の私は、何も理解し切れず、何もかもに共感出来ないと感じていた。


機械で歌う意義や理由を誰に尋ねても、私を納得させる答えは得られなかった。

ある程度の理解は可能で、多少の利になると感じる答えは幾つも授けられたが、一つのジャンルを確立するに足るほどの熱量、その源流は感じられずにいた。


当然、件の知人にも、私は尋ねた。

そこで得られた答えが、

「原曲が機械だと、歌っている人間の表現や解釈が介在していないのが良い」

というものだった。


理解は出来ても深く共感出来る内容では無かった為、その他の質問と同じ箱に入れておいたのだが、それが最近になって掘り出されてきた。


音域的に原曲通りに歌える気がしない曲や、声質的に原曲に寄せる気になれない曲などを歌う際、寧ろ歌い方を自分で模索出来るのが楽しいと感じ始めたのだ。


実体験を伴うと、途端にあの台詞が大切な物のように見えてくるのだから、不思議なことだ。



適当な箱に仕舞い込んでいた何かが、ある日輝き出すという経験は、なかなかに気分が良いものだった。

今も私の記憶の中には、光の欠片が埋もれているのかもしれない。